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熱血!上田文雄物語
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プロフィール

熱血!上田文雄物語

誕生 少年時代  中学生時代 札幌市長への道
恩師との出逢い 浪人、そして大学時代 弁護士としての活躍  札幌市長への道

誕生

 1948年6月11日。実に記念すべき上田文雄の誕生日であります。生まれたのは北海道中川郡幕別町。アイヌ地名では「ヤムワッカ」というところです。年は違いますが、ドイツの大作曲家リヒャルト・シュトラウス、あるいは川端康成と同じ誕生日であります。(文雄少年は後に、憲法にまつわるCDや、多くの著書を出版し、音楽・著述でも活躍しますが、それと誕生日は何ら関係がないものと思われます)

 さて、生まれたころ、すでに長女と四男が夭折しておりましたので、一家は全部で7人家族。文雄は7番目の子として生を受けたのでありました。
   文雄少年の父親はもともと農家の出でしたが、商家に養子に入り、日用雑貨の商いを家業としていました。戦中の統制経済のもとで、北海道種苗の道東ブロック支店の責任者としても活動していた父親は、戦後、地元の農業生産にアメリカ型の機械化農業の可能性を見いだし、トラクターなどの大型農機具の輸入販売を開始。その他農機具の製造販売と農機具のメンテナンス、さらには一般自動車の整備事業へと展開。同社は今でも文雄少年の長兄が操業を継続しています。
   



少年時代 

 なぜ母親は幼い文雄少年に「音痴」のレッテルを貼ったのか。詳しいことはわかりませんが、彼は小さい頃から母親に音痴といわれて育ってきたのでありました。
「文雄、おまえは音痴だから、ひと様の前で歌を歌ったりして、ご迷惑をおかけするんじゃありませんよ」
 音痴だから人前で歌ってはならない、といわれて育った文雄少年に事件が起きます。五年生のときでした。小学校で音楽の時間は音楽専門の先生が担当指導くれることになりました。

「それじゃあ、ひとりずつ歌ってみようか」
 先生の指示で、文雄少年もみんなの前で歌いました。すると先生は……。
  「上田君、いいねぇ! いい音出してるよ」
「えっ、先生、僕ってイケてるんですか!?」

  文雄少年が音楽に目覚めた瞬間でありました。このとき以来、文雄少年は歌や音楽が大好きになってしまったのです。それと同時に文雄少年は、「教育って、大事だな」という思いを抱くこととなります。 
「音楽は楽しい!」
 音楽教師のほめ言葉で、すっかり自信を持った文雄少年。小学校の残りの月日を、鼓笛隊に熱中して過ごし、ついには鼓笛隊を指揮するまでになりました。
   



中学生時代

 文雄少年は、幕別中学校でブラスバンド部に入ります。パートはトランペット。でも自分の楽器はありません。文雄少年は自分のトランペットが欲しいと思いました。

 当時、大人の給料が2万円位の時代に、トランペットは安いものでも8千円以上する贅沢品でした。父親は、「どんなに経営が苦しくても、従業員には絶対に、給料の遅配や欠配をやっちゃならん」という信条を持っていました。そのため、父親自身の給料が出ないということが何度もありま
した。
「うちは会社をやっているとはいうものの、めちゃくちゃ貧乏でした」(上田氏談)。上田家では3カ月も4カ月も給料なしで、過ごしたこともありました。「トランペットを買ってくれ」など、言えるわけがありません。しかも、父親は筋金入りの明治の男。家でもほとんどしゃべりません。
子どものおねだりにほだされるような男ではありませんでした。

  それでも楽器が欲しかった文雄少年。なんとかいい方法はないかと、作戦を立てました。そして、あるとき母親に言いました。
「父さん何もしゃべらないし、愛情を感じることができなくて僕は寂しい。めげそう。悲しいんだよね……このままだとぐれてしまうかも・・・」
 

 さらに、メソメソしながら訴えます。
「今、クラブでブラスバンドやってるんだけど、堤防にひとりで行ってトランペットを吹くと、なんか癒されるんだよね」

  普段から会話の少ない父親と少年の関係について、少年の胸の内を思いやった母親は、ひたひたと父親を取り巻いて、文雄の切なる胸の内を伝えます。作戦は見事に図に当たり、しばらくしてから、文雄少年は念願のトランペットを手に入れたのでありました。

  しかし文雄少年はトランペットを手にした直後、冷静に返り、父親が相当の無理をしてトランペットを買い与えたであろうこと、そして父親の文雄少年への愛情を試すようなねだり方をしたことに後ろめたさを感じ、それ以降、父親に無理な要求は決してするまいと心の中で誓ったのでした。
  それにしても……。貧しかったあの時代に、どんな工面をしたものか。親の苦労を子ども心に感じていた少年は、厳しかった父親との思い出の品として、買ってもらったトランペットを今でも大切にし、時々マウスピースを唇に当てるのであります。

   



恩師との出逢い

 幕別中学校。3年生になった上田君は、夏休みの直前に運命的な出会いに恵まれます。早稲田大学教育学部の学生として教育実習でやってきた、幕別中学校の先輩である原山勉先生との出会いでし
た。
 先生が語る独特のユーモアのセンス、生き生きとした東京の話に耳を傾けるうちに、上田君は十勝の大地から、広く日本を視野にとらえるようになっていきます。後に、原山先生は帯広工業高校に赴任され、上田君は帯広三条高校に進学。通勤・通学の同じ汽車のなかで、毎日多くのことを語り合って過ごしたのでした。

  上田君はそのころグループ活動やグループ交流に熱中し、クラス新聞を作ったり、仲間の誕生日会を開いたりしておりました。ある日、原山先生の友達だという人が、上田君たちの活動に興味を持って見に来られました。
 

「すばらしい! 君たちの活動は、地域社会を作るためにはとてもいい活動だ!」
 この人こそ、後の帯広市長になった高橋幹夫さんでした。難しいことはよくわかりませんでしたが、高橋さんに誉められて、地域や社会を注意深く見つめるようになりました。上田君が社会に目を向ける原点となった出来事でした。

  こんな上田君、高校時代の成績もさぞかし、と思う方もいるかもしれません。実際はどうだったか? 残念ながら「成績は非常に良くなかった」と、本人が回顧しております。名誉のために付け加えるなら、その原因は合唱部の活動に熱心に打ち込んだためであり、「声は最高の楽器だ」ということに目覚めてしまったためであります。

   



浪人、そして大学時代

 大学進学を目指した上田君、希望する大学の壁は厚く、受験に失敗してしまいます。そんな息子に父親はひと言。
「うちは平等主義だ。浪人したからといって、おまえにだけ特別な仕送りはできん」
 もとより覚悟の浪人でありました。生活のために上田君が選んだアルバイトは「牛乳配達」。さすが道産子であります。

  翌1968年、見事に中央大学法学部に合格。しかし時は折しも70年安保前夜の東京。中央大学のある神田・神保町からお茶の水にかけて、毎日催涙ガスが漂っているような時代でした。上田君は70年安保闘争の真っ直中で、中央大学の1年生になったのでありました。

 

 

  「成田・三里塚闘争」や、「パリ・コミューン」、「安田講堂占拠事件」など、幾多の事件がありました。しかし、上田君がデモに参加したのは、納得するまで議論を経た後、「10.21国際反戦統一行動」が最初でした。デモには参加しましたが、「なにかが違う」という声がしました。「誰かに先導されてやるんじゃなくて、自分でやるんだ」という思いが強くありました。ほどなく、デモ隊のなかから、上田君は姿を消しました。

  上田君は「ひとりデモ」を始めます。「一人でもやるぞ」、「自分一人で旗作ろう」と自分で作った旗を立て、「一人ひとり旗を持て!」と孤軍奮闘、怒鳴りまくっておりました。社会科学の基本文献、ヨーロッパ社会思想史や、岩波文庫の白帯などを、一生懸命読んだのもこのころのことです。

   



弁護士としての活躍 

 やがて、日々は過ぎ、卒業が間近に迫ってきます。中央大学の法科には伝統があります。当然、友達の何人かは司法試験を目指します。上田君も司法試験合格を目指して、勉強を開始しました。
 大学時代、六畳一間の下宿で、医療事故を専門とした弁護士になりたいという友達と共同生活をしていました。また、公害訴訟の専門弁護士になりたいと真剣に考えている友達に、隣の家に下宿することを勧め、日常生活を共にすることにしました。上田君はというと、労働者側の労働事件をやりたいと思っていました。

  先輩から「司法試験に受かるには、1日10時間やって正味3500時間。三年やれば1万時間、全てを犠牲にして勉強に専念すれば実力がつく。あとは運・不運でプラス・マイナス1年か、2年」などと教えられていました。素直な上田君は、青春のまっただ中、すべての時間を勉強に没頭したのでした。先輩が教えてくれたとおり、石の上にも三年で実力はついたのですが、運が悪く、もう1年。
1975年の10月に司法試験合格を果たし、司法修習生になりました。
 

  1978年4月、札幌に戻った上田君は弁護士として労働事件を数多く手がけます。中小零細企業の労働者の解雇事件、不当配転事件などを一生懸命に闘って、振り返ると10年の間、熱血弁護士・上田文雄は労働訴訟や労使紛争に明け暮れる日々を送ってきたのであります。

  やがて、上田弁護士の活躍の場は、学力テスト裁判に代表される教育裁判を担当することで「教育問題」や、専門性や閉鎖性の壁の中で救済がなされていなかった医療過誤の被害者患者を救済する「医療過誤訴訟」を担う活動へと移っていくこととなります。

  学力テスト裁判では、学校教育現場の先生たちと、教育の理想を熱く語る貴重な学習の機会を得ることができました。医療過誤問題では、患者救済の必要性を切実に感じ、文字通り患者とともに闘ってきました。このような経験や活動を通して、弁護士・上田文雄のなかの三本柱、『労働事件、医療事故、子どもの権利・教育』ができあがっていったのでした。

   



札幌市長への道

 上田弁護士は本業の弁護士活動のほかにも、さまざまな活動を続けました。自分が関わった消費者被害に関する諸問題や消費者金融(サラ金)問題から透けて見えたのは、自立的な判断や、自分の行動を抑制したり物事に対する自治能力を持てない人が増えている、病んだ社会の傾向でした。

「原因は、教育のあり方が間違っているからではないのか?」

上田弁護士は考えました。さらに、市民の自発的な地域活動を支援しようと、「NPO推進北海道会議」の活動も始めます。どんな問題に対しても、現状が良くないのなら黙っていないで「なんとかしなければいけない」。上田弁護士は、そう思って取り組んできたのでした。「なんとかしなく
ちゃ!」「誰かがやらなくちゃ!」
そんな生き方をしてきた上田弁護士は、これまで何かにつけて一緒に活動をしてきた市民活動家や、連合の労働組合運動をしてきた方々、そして民主党の皆さん方から、2003年4月の札幌市長選挙に出馬するように要請を受けるに至ったのでした。選挙の結果は4月、そして史上希に見ぬ6月の再選挙と、皆さんがご存じの通りです。
 

  かえりみれば、誰からもまだ推薦を受けない時期に再出馬表明をした再選挙の選挙期間中の350回を超える辻立ちは、学生時代、たった一人で旗を持って「一人デモ」をしたときと同じでした。
「公平・平等」は、明治生まれの父親の信条そのものです。働く人を大切にする。子どもたちを大切にする。みんなの暮らしや地域の環境を大切にする。生まれてこの方、生活のなかで培われてきた上田文雄の根っこの部分は、どうやらほとんど変わっていないようであります。そしておそらく、この先も変わらないのではないでしょうか。

  さて、「熱血! 上田文雄物語」。この先は、札幌の市民の皆さんが書きつづってくださることになりそうです。

   





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